粥彦

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カテゴリ:尾形亀之助 の こと( 7 )


2014年 10月 20日

尾形亀之助之詩之事  昼ちよつと前


尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです


+++


6 昼ちよつと前

 亀詩で気になる言葉に「昼ちよつと前」が、あります。

 亀さんは、いつも「昼ちよつと前」まで寝ていたから、気に入っていたのではないか、という説がありますが、どうなのでしょうか。



昼ちよつと前です


すてきな陽気です

×

マツチの箱はからで
五月頃の空気がいつぱいつまつてゐる

このうすつぺらな
昼やすみちよつと前の体操場はひつそりして きれいに 掃除がしてある



 すてきな詩です。

 煙草を吸いすぎてしまってマッチ箱は「から」になりましたが、そこに澄んだ「五月頃の空気」が入っています。小さな箱は、詩的イメージをかきたてるものがあります。

 ここから「ちよつと」飛躍して、「体操場」に場面が移ります。「きれいに そうじがしてある」とは、「五月頃の空気」の雰囲気にも重なります。清潔感を感じます。でも、もうすぐ「昼やすみ」になれば、人があふれるのでしょう。「きれい」な場所も失われるのでしょう。

 そうなってしまう直前の時間と場所を、すっと切り取ったような作品だと思います。

 ゆっくり何度も読むと、なんだかいい気分になります。

 次は、どうでしょう。



昼のコツクさん


白いコツクさん
コロツケが 一つ

床に水をまきすぎた
コツクさん
エプロンかけて
街は雨あがり

床屋の鏡のコツクさん
昼ちよつと前だ
コツクさん



 亀さんにしては、これも珍しい作風のように思います。「ちよつと」爽やかですね。そして「水をまきすぎ」る「ちよつと」おっちょこちょいの「コツクさん」です。

 亀詩では、よく「雨」が降っていますが、ここでは「雨あがり」です。それも、爽やかな雰囲気をこしらえています。うーん、いいお天気だ。

 「昼」になれば、「コツクさん」は、忙しくなります。かりっと揚げたサクサクほくほくの「コロツケ」定食を、いっぱい作らねばなりません。こんな事を書いていると、私もおなかが鳴りますねえ。

 さて、この作品も、先ほどの詩と同様、そんな「動」の時空直前の、「静」の様子を描いた秀作だと思います。旧い言葉ですが、モダンさを、今も感じることができます。

 勝手な想像ですが、亀さん行きつけの洋風食堂があって、そこのコックさんをモデルに書いたような気がします。散髪したての、きりっとしたコックさんを横目で見つつ、コロッケをほおばる寝癖頭の亀さんなのです。

(つづくはず……)

















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by kayu_hiko | 2014-10-20 12:11 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)
2014年 10月 04日

尾形亀之助之詩之事 蠅と私



+++

尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです

+++





5 蠅と私


 詩になりにくい言葉というものが存在すると思います。多くの人に嫌悪感を与えてしまう生物の名前などです。例えば、カメムシ、蚊、ゴキブリ、アブ、ブヨ、トカゲ、イタチ、スズメバチ、ツチノコ(もういい加減にしろ)、といった語はあまり使われません。もちろん「蠅」も。しかし、亀詩に蠅はよく似合います。

 で、またこの「蠅」は、『文藝春秋』一九二三年五月号に発表された横光利一の小説のタイトルでもあります。蠅が馬車を谷底へたたき落とす、あのお話です。亀さんが読んで、『蠅』は、おもろいなあ、ちょっと使わせてもらおう、と思ったかもしれません。いや、そんなことは分かりません。

 さて、亀さんの蠅です。どうぞ。




日向の男


男のひたいに蠅がとまつてゐます

陽あたりのよい窓にもたれて
男は
今 ちよつと無念無想です

私は 男のそばの湯のみと
男とをくらべて見たいやうな   
うかうかと長閑なものに引入れられやうとするのです   




 最初に登場する「男」が亀さんだな、と思いつつ読んでいると、「私」が現れて、「男」とは別人なのか! と驚いてしまう作品です。いやはや。

 「私」は、「男」と「湯のみ」を「くらべて見たいやうな」という意味不明の願望を持ちますが、いつものように行動には起こしません。そうすることは、「長閑なものに引入れられやうとする」というわけです。

 つまり、「男」と「湯のみ」を「くらべ」ることは、「長閑なものに引入れられ」るということなのでしょう。何なのでしょうか。亀さん、大丈夫でしょうか。きっと、「私」の「ひたい」にも「蠅」がとまっていると思います。これは間違いなしです。

 また離人症の症状が出ているのかもしれませんが、それなら病院に行ってください。次です。





昼は雨

ちんたいした部屋
天井が低い

おれは
ねころんでゐて蠅をつかまへた




 ナイスキャッチの亀さんです。


× × ×


 最後、いや最期と書いた方が正しいかもしれません。次は、亀さん最期の作品です。「歴程十九号」(昭和十七年九月)に掲載されました。




大キナ戦 (1 蠅と角笛)


 五月に入って雨やあらしの寒むい日が続き、日曜日は一日寝床の中で過した。顔も洗らはず、古新聞を読みかへし昨日のお茶を土瓶の口から飲み、やがて日がかげつて電燈のつく頃にとなれば、襟も膝もうそ寒く何か影のうすいものを感じ、又小便をもよふすのであつたが、立ち上がることのものぐさか何時まで床の上に座つてゐた。便所の蠅(大きな戦争がぼつ発してゐることは便所の蠅のやうなものでも知つてゐる)にとがめられるわけではないが、一日寝てゐたことの面はゆく、私は庭に出て用を達した。
 青葉の庭は西空が明るく透き、蜂のやうなものは未だそこらに飛んでゐるらしく、たんぽぽの花はくさむらに浮かんでゐた。「角笛を吹け」いまこそ角笛は明るく透いた西空のかなたから響いて来なければならぬのだ。が、胸を張つて佇む私のために角笛は鳴らず、帯もしめないでゐる私には羽の生えた馬の迎ひは来ぬのであった。




 亀さんは、第三詩集『障子の家』を発行後、ほとんど詩を書くことが無くなっていましたが、雑誌の求めには応じていたようです。

 始まってしまったアメリカとの戦争とその戦時態勢が、日本を完全に覆い尽くしていました。そんなことは「便所の蠅のやうなもの」すら知っている。でも、第一段落は、いつもの、何も変わらない亀さんです。
 
 ここまで徹底されると、ごく控えめに言って「スゴイナァ」と深く感じ入ります。この作品は、反戦詩とはいえないものの、「厭戦詩」と充分いえるでしょう。それは、亀さんの思想ではなく、身に付いた生き方なのです。

 「私」は何も変わらず何もしないけれど、周りは「どうしたことか」だいぶ変わったみたいだね。「蠅」まで変わっちゃったんだね。それは、「ちよつと」つらいなあ……、じゃ、庭でおしっこしよう、ぐらいの感じでご理解ください。

 さて、第二段落では、うつくしい「五月」の風景、黄色の「たんぽぽの花」が気になります。メルヘンの前兆でしょうか。あの「楽隊」も現れそうな感じです。そして、亀さんは、「西空」からの、幻の「角笛」の響きに耳を澄まします。

 が、珍しく「胸を張つて佇む私」ですが、いつものように「帯もしめないでゐる私」でもあります。ユウモアあふるる亀さん節が最期まで光っていますね。

 彼方からのペガサスの到来を待つ亀さんを、僕は、神さま、仏さまのように感じてしまいます。それは、「至高者」というより、「超越を待つ者」といったようです。

 「羽の生えた馬の迎ひ」、つまり、超越を願って書く行為を続ける者が「詩人」であるならば、亀さんは最期まで「詩人」でした。 これ以上書くと褒め過ぎなので、いったん筆を擱きます。














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by kayu_hiko | 2014-10-04 11:16 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)
2014年 09月 30日

尾形亀之助之詩之事  私と私


尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです

+++




4 私と私


 亀さんは、詩を意志の力でまとめ上げるタイプではなくて、意志の力ではどうにもならない領域を詩にしている気がします。ですから、どこかツメが甘いのですが、そのゆるさが浮遊感を生み出し、独特の世界に「読み手」を誘うのかもしれません。

 閑話休題(それはさておき)。

 どうしたことか私は、私に違和感を持ってしまう。どうも私は、私でない気がする。そんな人はいませんか。

 亀さんは、どうやらそんな傾向を持つ人だったようです。自分の身体の一部が、自分からはみ出していく感覚を書いた作品があります。




秋の日は静か


私は夕方になると自分の顔を感じる

顔のまん中に鼻を感じる

噴水の前のベンチに腰をかけて
私は自分の運命をいろいろ考へた




 本気なのか、冗談なのか、その境目が分からない作品です。もしくは、その境目、境界線を目に見える形、身体に感じる形で示しているようにも読めます。「夕方」になって、「自分の顔」を感じ始める。時間の経過につれて、当たり前の事象に対する違和感が芽生え始める。

「顔」を感じ、「鼻」を感じる。何が、どうなっていくのだろうと考え始める。過敏すぎる亀さんは、「自分の運命」を考えざるをえなくなります。全体にほの暗さを感じさせる作品ですが、それこそ後の亀さんの「運命」を言い当てているように感じてしまいます。

 次をみてみましょう。かなり離人症的です。




白い手


うとうと と
眠りに落ちそうな
昼     

私のネクタイピンを
そつとぬかうとするのはどなたの手です

どうしたことかすつかり疲れてしまつて
首があがらないほどです


レモンの汁を少し部屋にはじいて下さい




 またいつものなまけている亀さんですね。昼ですが、眠たいです。でも、ネクタイを締めているのでしょうか、真面目に不真面目な亀さんです。何もしていないのに「どうしたことかすつかり疲れてしまつて」とは、最高の亀さん節です。

「首があがらな」くて動けないので、先ほどから現れた「手」に、「レモンの汁」を「部屋にはじ」くようにお願いしています。

 で、ここで唐突に現れる「レモンの汁」とは何か? 特異語として扱えますし、この語によって作品が魅力的なものになっているように感じます。

 「レモン」と言えば、梶井基次郎の小説『檸檬』です。檸檬が妄想爆弾となる、あのお話です。昭和初期に小説集『檸檬』として単行本が発行されています。さらに調べますと、初出は、一九二五年一月の同人雑誌『青空』です。つまり、『色ガラスの街』刊行の十ヵ月前です。

亀さんが、『青空』を買って読んで、『檸檬』は、おもろいなあ、ちょっと使わせてもらおう、と思ったかどうかは、もちろん分かりません。もしかすると、大正末期の作家に「レモン」の存在が、シンクロニシティを持っていたのかもしれません。
 
宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』を書いていた時期(発表は戦後)に、亀さんにも、夜空を走っているような列車の登場する作品や、亀さんが賢治のために書いた追悼文に、なぜか銀河鉄道を彷彿とさせる記述があることの不思議さについて、秋元さんや吉田さんが述べています。偶然として片付けられない共時性が亀詩にはあるのかもしれません。

 話が逸れてしまいました。

 「レモンの汁」を「部屋」に「はじ」く行為は、どこか呪術的です。「首があがらない」のは、「どうしたことか」と分からないわけですから、「レモン」の呪術によって治そうとしたのかもしれません。

 また、「レモン」は、黄色です。この色は、後に述べますが、亀詩のキー・カラーですし、詩集『色ガラスの街』の派手な装丁色でもあります。「レモン」の色に、亀さんは魔力を感じていたのかもしれません。

 「ひらけ、ゴマ」ならぬ、「はじけ、レモン」といったところでしょうか。





















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by kayu_hiko | 2014-09-30 13:46 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)
2014年 09月 29日

尾形亀之助之詩之事  雨の楽隊



尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです


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3 雨の楽隊


 初期の亀之助詩は、短い作品が多いです。そして、いわゆる普通の言葉を使用しています。ですから、逆に特異な言葉が目につきやすいといえます。また、その特異な言葉が、いくつかの作品にくり返し登場することもあり、それらをつなげて読むと、物語的な解釈が可能となってきます。

 今回は、「楽隊」を取り上げます。



雨降り

地平線をたどつて
一列の楽隊が ぐずぐず してゐた

そのために
三日もつづいて雨降りだ



 一読して、どうもおさまりの悪さを感じます。その理由が、ようやく最近分かりました。単純に文の順序が逆さなのです。

 「三日もつづいて雨降りだ そのために 地平線をたどつて 一列の楽隊が ぐずぐず してゐた」が、本来の因果的な文脈と推定できます。

 しかし、ここはわざと間違えているのではないでしょう。亀さんの幻影では、本当に(「本当の幻影」とは不思議な言葉ですが)「楽隊」が「ぐずぐず」しているから「三日」も「雨」が続いているのです。

 で、この「楽隊」とは何か?

 それを解くヒントが、『色ガラスの街』から五年後に発行された詩集『障子のある家』の作品に記されています。


ひよつとこ面

 納豆と豆腐の味噌汁の朝飯を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思い出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。(後略)


 先ほどヒントと書きましたが、「楽隊」は、もう見あたらないようです……。この作品では、以前のような幻影がすっかり消えてしまい、亀さんを取り巻くとほほな現実ばかりが、描写されています。「一日机に寄りかゝつたまゝ」なまけている亀さんは五年が経っても相変わらず(!)ですが、「納豆」、「豆腐の味噌汁」、「やぶけてゐる障子」といった生活感丸出しの描写が目を引きます。(それはそれで面白いです)

 「ひよつとこ面」の次の作品、「詩人の骨」の中で「お前はもう三十一にもなるのだ」と何もしない息子(亀之助)へ向けて親父が非難の手紙を書いてきたことを記しています。親父に叱られた亀さんは、反発からか「三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつて」しまったと思ったと同時に、そういえば「俺の楽隊は何処へ」と急にフラッシュバックのように思い出すのです。

 ところが、その「俺の楽隊は何処へ」という言葉自体に、亀さんは「俺はなにを思い出したのだらう」と無理解を示しています。あの「一列の」、「ぐずぐず」のあなたの「楽隊」ですよ、と申し上げたいところですが、ずっと以前に「地平線」の向こうに消えてしまったのでしょうか。「楽隊」という大正ロマン的幻影、たぶん亀さんの私設応援団(?)は、昭和になって消えてしまったのでしょうか。

 もしくは、五年間という、かくも長きにわたって「楽隊」が「ぐずぐず」していたので、引用の最後にあるようにまだ「雨が降つてゐた」のかもしれません。亀さんは、待ち続けているうちに、何を待ち続けていたのかすっかり忘れてしまったのかもしれません。

 どちらにしろ、ちょっと寂しい亀さんです。



















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by kayu_hiko | 2014-09-29 20:25 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)
2014年 09月 27日

尾形亀之助之詩之事  心よくなまける


尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです

+++


2 心よくなまける


 ここではないどこかへ、亀さんは歩んでゆきます。




(春になって私は心よくなまけてゐる)


私は自分を愛してゐる
かぎりなく愛してゐる

このよく晴れた
春   
私は空ほどに大きく眼を開いてみたい

そして
書斎は私の爪ほどの大きさもなく
掌に春をのせて
驢馬に乗つて街へ出かけて行きたい



 ご存じのように(?)、亀さんは、いつもなまけていました。が、春になってようやく、「心よく」なまけられるようになったようです。よかったですね。それにしても、かなりナルコポンが効いた詩です。

 でも、よく読むと、しっかりなまけて何もしていないわけで「大きく眼を開いてみたい」や「街へ出かけて行きたい」とあるように、ただ空想しているにすぎないのです。亀さんが「なまけて」していることは、自分を「かぎりなく愛」することだけなのです!

 自分を愛することが、なまけることと等価なのか、なまける自分を愛しているのか、定かではありません。まあ、どちらにしろ大差はないと思うのですが……。

 ここは、真面目に考えず、亀さんと一緒になまけることが大切です。ただ自己愛に満ちた「私」の存在に注意を払っておきつつ、驢馬に乗って次へ向かってください。










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by kayu_hiko | 2014-09-27 18:00 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)
2014年 09月 24日

尾形亀之助之詩之事  わざと間違える


尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです

+++



1 わざと間違える

 これから亀さんの詩について語っていくわけですが、最初に私の考える「詩」の定義を述べておくことにします。

 「詩」とは、「言葉によって、読む者に幻影を抱かせ、ここではないどこかへ足を踏み入れさせる超越的な試み」であると考えています。 (といっても、今思いついたのですが) つまり、「読み手」が詩人の言葉を受け取って、「ちょっと別の世界に連れて行かれた気がする!」と思えば、その詩は、素晴らしいということです。

 「詩」の価値を判定するのはもっぱら「読み手」にかかっているといえます。 (ちなみに「書き手」は、書き終えた瞬間に役目を終えている気がします) ですから、どんなに有名な詩人の作品であっても、「読み手」がそれに「詩」を感じないことはしばしばあることです。それは、それで仕方がありません。「読み手」は、「詩」をよく感じさせてくれる自分にとって打率の高い詩人を見つけ出せばいいわけです。

 さて、亀さんの処女詩集『色ガラスの街』は、出だしから脱力感、いや超越感が漂っているように思います。




序の一 りんてん機とアルコポン


× りんてん機は印刷機械です
× アルコポンはナルコポン(麻酔薬)の間違ひです

私はこの夏頃から詩集を出版したいと思つてゐました そして 十月の始めには出来上がるやうにと思つてゐたので 逢う人毎に「秋には詩集を出す」と言つてゐました 十月になつてしまつたと思つてゐるうちに十二月が近くになりました それでも私はまだ 雑誌の形ででもよいと思つてゐるのです

×

そしてそんなことを思つて三年も過ぎてしまつたのです

で 今私はここで小学生の頃 まはれ右を間違へたときのことを再び思ひ出します
    一千九百二十五年十一月

(原文では、本文2行目「アルコポン」の「ア」、「ナルコポン」の「ナ」、7行目「まはれ右」に傍点あり)


 いきなり間違いの訂正から詩集が始まります。これは、前代未聞ではないでしょうか。また、最後に「まはれ右」を間違えたことを思い 出しています。間違えてはいけないのに、思わず間違えてしまったのでしょうか。まあ、あの亀さんのことですから、わざと間違えたに決まっています。そうやって、しょっぱなから大事な処女詩集の構成にヒビを入れていきます。イタズラ好きの亀さんならやりそうなことです。

 
 内容を見ていきますと、「りんてん機」は、この詩集を生み出す機械です。それと並列される「アルコポン」、いや「ナルコポン(麻酔薬)」(ああ、ややこしい)は、『色ガラスの町』の隠喩と捉えることが可能です。亀さんの複雑な変化球を読み解くと、この詩集自体が、ナルコポンの役目を果たすということなのです。作品の一つひとつが、危ない薬だというのでしょう。で、簡潔いうと、「まあ、読めばトリップできるよ」と亀さんはおっしゃっているのです。

 前言を撤回することになりますが、もしかすると「わざと間違えた」のではなく、自らの詩を何度も読んでいるうちに「ラリってしまって間違えた」のかもしれません。なんだか、私自身も今書いていることの全てが間違っている気がしてきました。「間違いがない」という当たり前の前提が最初にひっくり返されたまま、この詩集は始まるのです。ここにも知性的な批評に肩すかしをくらわせる構造が仕組まれているといえましょう。

 そろそろ次に行った方が良さそうです。


















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by kayu_hiko | 2014-09-24 10:38 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)
2014年 09月 22日

尾形亀之助之詩之事 はじめます


尾形亀之助之詩之事


もくじ


はじめます

1 わざと間違える

2 心よくなまける

3 雨の楽隊

4 私と私

5 蠅と私

6 昼ちよつと前

7 謎 黄色 

まとめられないです

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はじめます


 これから、尾形亀之助(一九〇〇~一九四二)の詩について語ります。亀之助の生涯と人物像については、これまでに秋元潔さんや吉田美和子さんの労作によって精緻に語られてきました。亀さんは、お坊ちゃん育ちで、生活無能者、とんでもない酒飲み等、微苦笑してしまうエピソードには事欠きません。

 ただ、亀之助の詩を正面から取り上げることは、なかなか難しい作業です。その理由は、亀之助詩を真面目に取り上げようとすればするほど、的外れな批評となるような構造が存在するからです。

 たとえば、第二詩集『雨になる朝』の後記において、「で、この集をこと新らしく批評などをせずに、これはこのまゝそつと眠らして置いてほしい」と書き残していることからも推測できますが、亀さん自身、まともに批評されないようにちょっと気を遣って(?)いた節があります。短文「私と詩」では、「『笑い』といふやうなものをゆつくり詩に書いてみたい」と、おそらく当時の、いや現代の批評家をも煙に巻くようなことを述べています。

 で、私は、どうすればいいのか。

 この言葉づかいですでに明らかかもしれませんが、あるていど不真面目に亀之助詩を取り上げることが、かえってよい方法なのかもしれません。亀さんの言葉づかい、息づかいといった独特の「振る舞い」を、できるだけ真似たり茶化したりすることで、亀詩の魅力に迫る抜け道のようなものが見つかる気がしています。ふふっと「笑い」がこみ上げてくるような引用、発想、表現を、ゆっくりと書いてみたいのです。

 ですから、私は、目玉を三角にした批評家としてではなく、心よくなまけている亀之助のいちファンとして書きます。というわけで、内容には、いっさいの中立性はございません。拙稿を読んでくれた人が、亀之助詩に興味を持ってもらえたら、うれしいです。もし、怒った人がいても、そっと眠っていただけたら幸いです。

(つづく)















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by kayu_hiko | 2014-09-22 14:29 | 尾形亀之助 の こと | Comments(0)